由緒・由来
附系図
宗旨
ご本尊
●明治33年に描かれた当寺の全景です。特徴的な山門の様子などがわかります。寺宝・建造物
・本堂(大雄寶殿)
・鴟尾
・山門・裏門・十六羅漢堂
・客殿(衆殿)
・当寺の寺宝
・宮内大神、高勝公墓所
・開山堂、位牌堂
・忠霊殿
・不動池
真田家と宮内之助高勝公
高勝公は真田家中興の祖といわれる真田幸隆の五男であり、三男の兄昌幸はその名を天下に響かせた智将である。
高勝公に関する記録はあまりないため、生年月日は不詳であり生前の足跡に関しては不明な点が多いが、上田城主信之からの書状によると高勝公は、慶長5年(1600年)関が原の合戦、更に上田合戦の折には尾野山口を守り徳川軍を大いに苦しめたと記されています。なお、没年は慶長十一年、法名は「高勝寺殿龍顔宗白大居士」
真田氏の本家は、滋野氏から興り、海野氏で最も隆盛を極める。両本家の家紋は月輪七九曜であった。真田幸隆は、父、棟綱とは敵方である武田の武将になったおり、家紋と旗印を六連銭に改めた。武家の家紋としては当時としては珍しい旗印は何を意味するのか?諸説ある中のひとつをご紹介します。
六連銭(六文銭)とは、三途の川を無事に渡れることを祈るお金、即ち死者を葬るときに入れる「三途の渡し銭ではないか」と言われております。死をも覚悟して父、棟綱とは敵となる武田に仕える決心を旗印に込め、身を切るような<不惜身命>の大覚悟を表したのではないだろうか。また、天平10年(1541年)、甲斐の武田信虎が当時、長野県の小県地籍を治めていた海野氏を打った神川合戦で敗北の将となった幸隆は、群馬県「長源寺」に身を寄せます。そこで、真田氏の菩提寺である長谷寺開山の伝為晃雲大和尚と出会い、大変影響を受けたのではないかとも考えられております。その後、戦国の世を生き抜く厳しさは後代まで伝えられることとなり、真田家の混迷の歴史に移るのであります。
宗名ー曹洞宗です。
大本山ー福井県の永平寺
ご開山 高祖道元禅師さま(こうそどうげんぜんじさま)
横浜市の總持寺
ご開山 太祖螢山禅師さま(たいそけいざんぜんじさま)
本尊唱名ー南無釈迦牟尼佛(なむしゃかむにぶつ)
曹洞宗の教え
曹洞宗の教えはお釈迦さまから代々の祖師さま方にお伝えになられた法(教え)をひとつの器の水をそっくりそのまま、次の器に移すようにひとつ残らず受け継ぎ人間本来の生命の尊さに覚め、道元禅師さまがお説きになられた、身も心も坐禅の身心そのままが仏の姿そのものである(只管打坐の精神)ことを説いております。また、”坐禅行”のほか、日常生活における宗教実践の途として、”総序”生死の本質をはっきりさせること、”懺悔滅罪”真心をもって懺悔し、自分自身の生活を見直すこと、”受戒入位”仏の子たる教えに従い、それを受け、守り、仏として目覚めさせてもらうこと、”発願利生”尽きることのない煩悩の世界の救いに身を捧げると誓って人々に奉仕すること、”行事報恩”毎日の暮らしのなりわいの実践において、生かされて生きていることを感謝し、そのための行を積み重ねることを説き、その一つ一つが、目的のための手段ではなく、そのことに命の全てをかけることを教えております。
昭和45年建設
戦死者供養殿。
不動の池より、当寺遠景