真田高勝公菩提所
曹洞宗 不動山龍顔寺
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「当山19世と共に」 「のらくろ」

「のらくろ」と龍顔寺

 漫画「のらくろ」の作者、田河水泡が上田市生田(旧依田町飯沼、丸子町大字生田)に疎開したのは昭和19年でした。この地を選んだのは、杉並区西田小学校の児童が、龍顔寺に学童疎開していたことと、この近くの鐘ヶ淵紡績丸子工場(カネボウ)での紙の試作を知ったからではないかと思われています。また当寺に残された資料によりますと丸子にご夫婦で疎開され、別所温泉に強く憧れていたようです。
昭和6年(1931年)「少年倶楽部」新年号から始まった連載「のらくろ」は、16年(1941年)10月号をもって執筆中止となりました。昭和12年(1937年)には日中戦争が始まり、それに続く太平洋戦争へと日本の社会情勢は悪化し、「漫画の量を減らすこと、特に長編漫画を減ずる事。」の用紙統制令のもと、当時百万部も発行されていた「のらくろ」が槍玉にあがったのです。
その後、戦火が激しさを増し、彼も疎開を余儀なくされ、丸子生田飯沼(現在は上田市)へと移り住みました。そこで彼は、同じように戦火を逃れて、親元を離れて学童疎開していた幼い子供たちのために町内の学寮を尋ね、漫画を描いたり落語をしたりして、慰問し激励して歩いたそうです。そんな最中、龍顔寺にも訪れるようになり、お酒が好きだった水泡は、当寺18世実雄和尚と大変気が合い、時期になるとお寺の裏山で松茸などを一緒に採ったり、お酒を酌み交わしたりと頻繁に訪れては交流を重ね、度々当寺にお泊りになりました。(当時宿泊されたお部屋は現在、「田河水泡所縁の間」として残された想い出の絵などを展示して大切に管理しております。)また、近くにお住まいの方が畑で収穫した野菜などを持参すると色紙に「のらくろ」の絵を快く描いてくれたり、特に子供達には『俺は何でも描ける。希望の絵を言いなさい』と親しげに語りかけ、その場で絵を描いてくれたそうです。丸子に滞在している間、そうして地元の人々と交流し、当寺にも彼が描いた絵が残されました。その後、丸子を離れた後も水泡が晩年になるまで実雄和尚に、その年の干支を漫画で描いた楽しい年賀状を送ってくれました。なお、彼は東京生まれですが、その祖先は信州の出身であり、本家は南佐久郡臼田町にあるそうです。

のらくろ所縁の収蔵品や、作者の田河水泡氏の疎開当時の様子を紹介します。
「のらくろの部屋」

龍顔寺に残る田河水泡の絵(所蔵一部掲載)

               




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