真田高勝公菩提所
曹洞宗 不動山 龍顔寺

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お寺紹介

龍顔寺の古地図

明治33年に描かれた当寺の全景です。特徴的な山門の様子などがわかります。
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目次

由緒・由来

附系図

宗旨

ご本尊

寺宝・建造物

本堂(大雄寶殿)
鴟尾
山門・裏門・十六羅漢堂
客殿(衆殿)
当寺の寺宝
宮内大神、高勝公墓所
開山堂、位牌堂
忠霊殿
不動池

由緒・由来

 当寺は慶長12年(1607年)真田宮内之助高勝公(附系図参照)の菩提寺として、信州上田城主、真田信之公の朱印状により開創されました。高勝は信光とも称し、上田城主、真田昌幸公の弟にして、幸村はその甥に当たります。
開山は葉山存荷大和尚(1620年示寂)であり、甲府市恵運院二世光厳東旭大和尚の二番弟子です。兄弟子は松山存宿大和尚といい、上田市大輪寺の開山大和尚です。
四世良傅和尚(1667年示寂)代に、寛文の依田川大氾濫により寺域が流されてしまいそれまでの飯沼竹之花地籍より、通称宮内さま屋敷と伝承された北原地籍に移転再建された。現在当寺西方に宮内之介高勝を宮内大神として御霊を祀る拝殿と2基の石祠が現存している。創建当初、高勝公の法名「高勝寺殿龍顔宗白大居士」より高勝寺と称し、移転後龍顔寺に改めた。
六世雲紫和尚代(1737年示寂)生田茂沢に浄源寺を開創し末寺とした。
九世恵泉和尚(1788年示寂)代に現存の山門、十六羅漢堂が建立され、その棟梁は野沢の小林源蔵(岩村田城築城)です。続き十世貫宗(1790年示寂)代に裏門建立。十二世祖運より、十三世祖参、十四世有参の各和尚代即ち文化元年(1804年)より60年の歳月を費やして、客殿造り本堂・庫裏の再建を果たすも、十五世文英和尚代、慶應四年、江湖会修行の後、山門、裏門、土蔵を残して全山消失し、後に仮本堂として、和田村の本陣の客殿を移築した。それは幕末に皇女和宮の御宿り奥客殿であったものである。
十八世實雄和尚代に至り、客殿、衆寮、位牌堂を新築し、江湖会修行の後、平成の暦年に至ってようやく念願の本堂(大雄寳殿)が建立され、峯に金色の鴟尾(しび)を配した重層屋根の大殿堂完成。旧堂は衆寮客殿として移築保全した。 即ち十八世實雄、現住厚生和尚師資相攝、壇信徒協力和合のもと百年振りに長年の宿願を達成して現在にいたり、三世の諸仏、祖師の洪恩に拝謝し、合掌礼拝しております。かように当寺四百年間の寺歴は伽藍の興亡と再興の内に現存しています。
幸いに堂塔伽藍は南に蓼科山を仰ぎ、北に不動の山沢を背負い、東に浅間山、西に独鈷山をみる山を瀬に南面した地に、前面には不動の池(放生池)を配した静寂な佇まいの中に位置しております。
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真田家附系図

真田宮内之助高勝公と、その前後の附系を別紙附系図にて表しています。ご覧下さい。
(図をクリックすると拡大図が出ます。)
附系図真田家と宮内之助高勝公
高勝公は真田家中興の祖といわれる真田幸隆の五男であり、三男の兄昌幸はその名を天下に響かせた智将である。
高勝公に関する記録はあまりないため、生年月日は不詳であり生前の足跡に関しては不明な点が多いが、上田城主信之からの書状によると高勝公は、慶長5年(1600年)関が原の合戦、更に上田合戦の折には尾野山口を守り徳川軍を大いに苦しめたと記されています。なお、没年は慶長十一年、法名は「高勝寺殿龍顔宗白大居士」

真田家と六連銭
真田氏の本家は、滋野氏から興り、海野氏で最も隆盛を極める。両本家の家紋は月輪七九曜であった。真田幸隆は、父、棟綱とは敵方である武田の武将になったおり、家紋と旗印を六連銭に改めた。武家の家紋としては当時としては珍しい旗印は何を意味するのか?諸説ある中のひとつをご紹介します。
六連銭(六文銭)とは、三途の川を無事に渡れることを祈るお金、即ち死者を葬るときに入れる「三途の渡し銭ではないか」と言われております。死をも覚悟して父、棟綱とは敵となる武田に仕える決心を旗印に込め、身を切るような<不惜身命>の大覚悟を表したのではないだろうか。また、天平10年(1541年)、甲斐の武田信虎が当時、長野県の小県地籍を治めていた海野氏を打った神川合戦で敗北の将となった幸隆は、群馬県「長源寺」に身を寄せます。そこで、真田氏の菩提寺である長谷寺開山の伝為晃雲大和尚と出会い、大変影響を受けたのではないかとも考えられております。その後、戦国の世を生き抜く厳しさは後代まで伝えられることとなり、真田家の混迷の歴史に移るのであります。
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宗旨

曹洞宗 道元禅師さまと螢山禅師さま

宗名ー曹洞宗です。

大本山ー福井県の永平寺
ご開山  高祖道元禅師さま(こうそどうげんぜんじさま)
横浜市の總持寺
ご開山  太祖螢山禅師さま(たいそけいざんぜんじさま)

本尊唱名ー南無釈迦牟尼佛(なむしゃかむにぶつ)

曹洞宗の教え
曹洞宗の教えはお釈迦さまから代々の祖師さま方にお伝えになられた法(教え)をひとつの器の水をそっくりそのまま、次の器に移すようにひとつ残らず受け継ぎ人間本来の生命の尊さに覚め、道元禅師さまがお説きになられた、身も心も坐禅の身心そのままが仏の姿そのものである(只管打坐の精神)ことを説いております。また、”坐禅行”のほか、日常生活における宗教実践の途として、”総序”生死の本質をはっきりさせること、”懺悔滅罪”真心をもって懺悔し、自分自身の生活を見直すこと、”受戒入位”仏の子たる教えに従い、それを受け、守り、仏として目覚めさせてもらうこと、”発願利生”尽きることのない煩悩の世界の救いに身を捧げると誓って人々に奉仕すること、”行事報恩”毎日の暮らしのなりわいの実践において、生かされて生きていることを感謝し、そのための行を積み重ねることを説き、その一つ一つが、目的のための手段ではなく、そのことに命の全てをかけることを教えております。


・ご本尊

釈迦牟尼佛坐像(木曾檜材寄木造・載金仕上げ)

京都大仏師  江里康慧 造像
載金師 江里佐代子(人間国宝)



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ご本尊
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寺宝・建造物

・本堂(大雄寶殿)


二重楼閣造り 平成五年十月完成(構想4年、施工期間4年)


本堂正面

本堂ー2

本堂正面ー2

本堂の設計図
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・鴟尾(しび)

当寺の屋根の両峰には鴟尾といわれる、魚の尾をデザインした飾りがついております。これには、木造建築において最も恐れる火事を防ぐための祈りがこめられ、水中を自由に泳ぎまわる魚は水を自在に操って火を消すことができるという考え方から、しびは火から守ってくれる象徴なのです。
       

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・山門、裏門、十六羅漢堂

当寺に現存する建築物の中では山門と裏門が最も古い。
山門は三門ともいい、三解脱門即ち迷より悟りに入る門の意であります。当山九世恵泉和尚(1788年示寂)に発願、十世東傳祖道和尚代に山門、十六羅漢堂が建立。天明六年(1786年)より工事開始し、天明八年九月完成。棟梁は佐久野沢(現佐久市)の佐藤源蔵(岩村田城築城)で、唐風楼閣造り。
なお、山門は平成十七年度に「丸子景観百景」のひとつに選ばれました。

山門ー1

山門ー2

冬の山門

十六羅漢像

裏門
第十一代(1700年代)造立
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・客殿(衆寮) (本陣客殿)

明治元年、不幸にも山門を残して大伽藍の全てを焼失し、この年から平成5年までの間、和田村(旧中山道和田宿)の本陣客殿を移築し仮本堂として使用。本堂建設(平成5年)に際して、本堂西側に移築し、客殿(衆寮)として現在も使用しております。
この客殿は、文久元年(1861年)仁孝天皇皇女和宮様(孝明天皇の妹)が徳川十四代将軍家茂公に御降嫁の折に中山道和田宿にてお泊りの客殿であります。

  

・当寺の寺宝

当寺には、開山以来400年、伝来の寺宝がございます。(下の画像をクリックすると、寺宝のページへ飛びます。)
上田城主、真田信之公よりの書状
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・宮内大神、高勝公墓所

本堂の西方に宮内之介高勝を宮内大神として、御霊を祀る拝殿と、北方に二基の石祀が現存している。
高勝公法名「高勝寺殿龍顔宗白大居士」。



宮内宮


高勝公墓所
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・開山堂、位牌堂

昭和45年建設。

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・忠霊殿

戦死者供養殿。

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・不動の池(丸子百景のひとつ)

この池の水源は、当寺山内北側にある、不動沢である。この池のほとりには、不動明王・石殿が現存する。
不動の池より、当寺遠景
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